『源氏物語 乙女』

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【原文】

少女(をとめ)
 
大殿、静かなる御住(すまひ)を、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませんの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御旧(ふる)降き宮のほとりを、四町(よまち)を占(し)めて造らせたまふ。 
― 中略 ―
 八月にぞ、六条院造りはてて渡りたまふ。未申(ひつじさる)の町は、中宮の御旧宮(ふるみや)なれば、やがておはしますべし。辰巳(たつみ)は、殿のおはすべき町なり。丑寅(うしとら)は、東(ひむがし)の院に住みたまふ対の御方、戌亥(いぬゐ)の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便(びん)なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山の御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。

【現代語訳】

源氏の大臣は、閑静(かんせい)なお住まいをお望みになり、それも同じことなら広く見どころのあるように造営して、あちらこちらに気がかりな様子でお住まいの方々をも、一同に集めて住まわせようというお考えで、六条京極のあたり、梅壺中宮の旧邸の周辺に、四町(よまち)を用地に占めて新邸をお造りになられる。 ― 中略 ―
 八月には、六条院の造営を終えてお移りになる。西南の町は、もともと梅壺中宮の伝領されたお邸なので、そのまま中宮がお住まいになる予定である。東南の町は、大臣と紫の上がお住まいになることになっている。東北は二条東院にお住まいの対の御方(花散里)、西北は明石(あかし)の御方のお住まいとお決めになられた。
 もとからあった池や山なども、具合のわるい所は崩して位置を移し、水の流れや山のたたずまいを改めて、四つの町それぞれに住む方々のご希望にそうような風趣(ふうしゆ)をお造りになられた。

【解 説】

源氏物語は、寛弘(かんこう)5年(1008年)頃に紫式部によって執筆された王朝物語です。
 「少女」の巻に登場する光源氏の本邸『六条院』や「夕顔」の巻の『某(なにがし)の院』は、塩竈をこよなく愛した「光源氏のモデル」といわれる河原左大臣によって、六条京極(現在の京都市下京区本塩竈町付近)に、塩竈の景色をまねて築かれた大庭園『河原院』です。
 物語の『六条院』は、それぞれの町に住む方々の希望に添って、春の御殿(紫の上)夏の御殿(花散里)、秋の御殿(梅壺中宮)、冬の御殿(明石の御方)、と、四季を配した庭園造りがなされていますが、モデルとなった『河原院』も方四町(約250m四方)、一説には2倍の八町の広さがあったと伝えられています。
 また籬(まがき)島などを配置した園池には、遠く難波の浦(尼崎)から毎月あるいは毎日、三十石(こく)(約5.4t)の海水を運び込み、魚貝を棲まわせて、塩焼く煙を立ち上らせたと伝えられ(『安法法師(あんぽうほうし)集』、『顕註密勘(けんちゆうみつかん)』、『伊勢物語愚見抄(ぐけんしよう)』、『雍州府志(ようしゆうふし)』による)、まさに塩竈という名のテーマパークであり、日本庭園のルーツともいわれています。
 源氏物語は、塩竈を愛した貴公子の塩竈を模した庭園を舞台とした物語ともいえることから、源氏物語千年紀を記念し、ここに建立しています。

作者・著者:紫式部(むらさきしきぶ)
年代:寛弘5年
材質・形状:石碑
所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道)
閲覧可

地図


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