『好色一代男』

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【原文】

好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)
口舌(くぜつ)の事触(ことふれ)(巻三)  

仙台(せんだい)につきてみれば、この所の傾城町(けいせいまち)はいつの頃絶えて、その跡なつかしく、松島や雄島(をじま)の人にもぬれて見むと、身は沖の石、かわく間もなき下の帯、末の松山腰のかがむまで色の道はやめじと、けふ塩竈の明神に来て、御湯(おゆ)まゐらせける人をみるから恋ひそめ、社人(しゃにん)に近寄り、「我は鹿島より当社に参り、七日の祈念して帰れとの霊夢にまかせ候」と申せば、いづれも、「有難き事かな」と様々いさめけるうちに、かの舞姫、男あるをそそのかして色々おどせば、女ごころのはかなく、おしこめられて声をも得てず、この悲しさいかばかり、「道ならぬ道ぞ」と膝をかため泪をながし、こころのままにはならじと、かさなればはね返して、命かぎりとかみつきし所へ、男は夜の御番勤めし、夢心に胸さわぎ、宿に盗人の入ると見て立帰り、女は科(とが)なき有様(ありさま)、世之介を捕へて、とかくは片小鬢(かたこびん)剃られて、その夜沙汰(さた)なしに行方(ゆきがた)しらずなりにき。

【現代語訳】

仙台に着いてみると、この御城下(ごじょうか)の傾城(けいせい)町はいつの頃か絶えて、その跡も懐かしく、せめて松島や雄島(おじま)の女とでも濡れてみようと、わが身は沖の石のように乾くまもない下の帯という有様(ありさま)、末の松山の松のように腰のかがむまで色の道だけはやめまいと、今日、塩竈の明神に来て、湯立をとり行う巫女(みこ)を一目見たとたん夢中になって、社人に近寄り、「私は鹿島から当社に参拝、七日間祈念をして帰れとの、霊夢(れいむ)に任せ参りました」と申すと、皆々は「それは有難いことだ」と様々に励ましてくれたが、その舞姫に亭主があるのにそそのかし、いろいろ威(おど)すと、女心のはかなく、押さえこまれて声も立てられず、この悲しさはどんなであろう。「道ならぬことです」と膝を固め涙を流して、自由にはされまいと、重なればはね返し、命懸(いのちが)けでかみついたところへ、亭主は宿直を勤めていたが、夢心に胸騒ぎがして、家に盗人(ぬすっと)でもはいったのではないかと帰ってみると、女房に科(とが)はない有様なので世之介(よのすけ)だけが捕えられ、有無を言わさず片小鬢(かたこびん)を剃られて、その夜のうちにこっそりと行方が知れなくなってしまった。

【解 説】

万治(まんじ)年間(1658~1660年)に藩内(はんない)での遊女町は禁じられましたが、港町であった塩竈と石巻は黙認されました。特に塩竈は仙台に近く、鹽竈神社参拝、松島観光を背景に大変繁盛し、西町から本町に多くの遊女屋ができました。
 年代は下りますが、文化文政(1804~1829年)の記録では、216人の遊女と26軒の遊女屋、14軒の小宿座敷がありました。 
 井原西鶴(1642~1693年)は、仙台や塩竈を訪れたことはなかったと思われますが、好色一代男が描かれた天和(てんな)2年 (1682年)には、塩竈がすでに遊女町として全国的に広く知れ渡っていたことが伺えます。

作者・著者:井原西鶴(いはら さいかく)
年代:天和2年
材質・形状:石碑
所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道)
閲覧可

地図


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