『東北遊日記』

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【原文】

東北遊日記 三月

十八日  朝微雨 巳にして晴る 塩竈の別当鈴木隼人を訪ふ 隼人 吾が二人を導きて法蓮寺に登る 寺の地は高敞にして松島を望むべし 寺に藩侯臨む所の室あり 塩竈明神の祠を拝す 是れを陸奥一の宮と為す 古鐘あり 文を按ずるに 明応六年に鋳る所 大旦那留守藤原朝臣藤王丸の文あり 留守氏は登米(とよま)の大夫伊達式部の祖なり 祠に神馬あり 藩侯世ごとに一匹を献ず 九月十七日の祭事 侯 国に在るときは則ち来り詣づ 仙台の封地は最も売色を禁ず 而るに塩竈 石巻は船舶の輻湊する所なるを以て禁ぜず 未後(ひつじご)塩竈を発して市川に至り 多賀城の碑を観る

【現代語訳】

18日、朝は小雨で10時頃になって晴れた。塩竈の別当(べつとう)、鈴木隼人(はやと)を訪ねた。 隼人は、我々二人を導いて法蓮寺(ほうれんじ)に登った。寺の建つ地は高くて広く、松島を眺望できる。この寺には藩主が景色を楽しまれる部屋がある。鹽竈神社の社を参拝した。この社は奥州一宮である。古い鐘があり、鐘に刻まれた文を調べると、明応6年(1497年)の鋳造で、留守(るす)藤原朝臣(あそん)藤王丸の文がある。留守氏は登米の大夫伊達式部の先祖である。
 境内には神馬(しんめ)がおり、代々藩主が一匹献上する。9月17日の祭事には、藩主が在国のときは御参詣なされる。仙台藩の領地は何よりも売色を禁止している。しかし、塩竈・石巻は各地より船舶の寄り集まる所なので禁止していない。午後2時すぎ、塩竈を出発して市川(多賀城市)に至り、多賀城の碑を観た。

【解 説】

『東北遊日記』は、幕末の思想家で長州藩士吉田松陰(よしだしょういん)(1830~59年)の、憂国の思いを胸に東北を旅した記録です。弱冠22歳の彼が江戸に留学中、ロシア船の北方出没を知りその防備を確かめるため、嘉永4年 (1851年) 12月15日 (陰暦)に、脱藩覚悟で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と共に140日間に及ぶ東北遊学の旅に立ちました。彼らは新潟~津軽~盛岡を経て、嘉永5年 (1852年) 3月18日、塩竈に立ち寄っています。短時間の逗留(とうりゅう)でありましたが、塩竈の歴史や風土を記録しており、彼の鋭い探求心が伺えます。
 その後、会津を経由して江戸に戻りますが、彼は藩の処分で浪人となるものの、翌年許しを得て再度江戸に赴き、佐久間象山(さくましようざん)の弟子となって蘭学や砲術を学びます。安政元年 (1854年) にペリーの黒船に密航を企て失敗。享年30歳という若さで安政の大獄で処刑となりますが、高杉晋作をはじめ、明治維新に活躍した多くの弟子を育てたその功績は計り知れません。
 なお文中の「法連寺」は、明治4年 (1871年) の廃仏毀釈(はいぶつきしやく)でほとんどは失われますが、「藩主が景色を楽しまれる部屋」として記述のある「勝画楼(しようがろう)」のみが解体を免れ、今も現存しています。

作者・著者:吉田松陰(よしだ しょういん)
年代:嘉永4年
材質・形状:石碑
所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道)
閲覧可

地図


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