藤塚知明ってどんなひと? ~塩竈の文化に尽くした人々~

答え

江戸時代中期えどじだいちゅうき仙台藩せんだいはん※1代表だいひょうする学者がくしゃで、
鹽竈神社しおがまじんじゃ神官しんかんとしてはたらきながら、さまざまな研究けんきゅうすすめました。
知明ともあきのもとにはおおくの学者がくしゃがつどい、
江戸幕府えどばくふ林子平はやししへい※2などの文化人ぶんかじんともつながりがありました。

  • 藤塚知明の墓碑
    藤塚知明の墓碑
  • 烟波亭跡
    烟波亭跡

もっと詳しく

天文3年てんぶん ねん(1738)桃生郡十五浜(石巻市雄勝町大須浜)ものうぐんじゅうごはまいしのまきしおがつちょうおおすはま)漁師の家りょうし いえまれ、どものころの千之助せんのすけ(あるいは子之助)といいました。
両親が亡りょうしん なくなったあと仙台肴町せんだいさかなまち魚問屋「永野屋」さかなどんやながのや仙台大崎八幡神社の神官せんだいおおさきはちまんじんじゃ しんかんである山田家やまだけのもとでそだてられ、のちに鹽竈神社しおがまじんじゃ神官しんかんである藤塚知直の娘の順ふじつかともなお むすめ じゅん結婚けっこんし、藤塚式部知明ふじつかしきぶともあき名前なまええました。
知明は勉強ともあき べんきょうにはげみ、ふるくからつたわった神道を深しんとう ふか研究けんきゅうし、「塩竈社古説伝しおがましゃこせつでん」をきました。また、おおくの食料不足の人々を救しょくりょうぶそく ひとびと すくうために、食用しょくようになる野草やそうなどを紹介しょうかいする本を書ほん かいたりもしました。

知明ともあきは、日本や中国の本にほん ちゅうごく ほん一万冊以上集いちまんさついじょうあつめ、「名山蔵(名山文庫めいざんぐら めいざんぶんこ)」という書庫しょこをつくりました。知明と交流ともあき こうりゅうのあった林子平はやししへいは、ここにあつめられたほん利用りようして「海国兵談かいこくへいだん※3いたといわれています。子平しへいをはじめ、おおくの学者・文化人が知明の家がくしゃ ぶんかじん ともあき いえ別荘べっそうである烟波亭(塩竈市西町えんばてい しおがましにしまち)をたずね、さかんに交流こうりゅうしました。

寛政10年かんせい ねん(1798)、鹽竈神社と法蓮寺しおがまじんじゃ ほうれんじとのあいだでおこった「仏舎利事件ぶっしゃりじけん」の責任せきにんをとらされるかたち桃生郡鹿又村(石巻市鹿又)ものうぐんかのまたむら いしのまきしかのまたながされ、寛政12年かんせい ねん(1800)、63さい一生を終いっしょう おえました。おはか塩竈市しおがましみのがおか雲上寺管理の墓地内うんじょうじかんり ぼちないにあります。

補足説明

※1 仙台藩せんだいはん
江戸時代(1603-1867)に伊達家が支配した地で、現在の宮城県のほぼ全域と岩手県の南部を含む地域。現在の仙台市に城(仙台城、別名で青葉城)をつくりました。
※2 はやし子平しへい
江戸時代後期(1738~1793)の政治・経済学者で、仙台藩の武士。外国のことに詳しく、外国から日本を守ることの必要性を強くうったえました。
※3 海国かいこく兵談へいだん
林子平が寛政3(1791)年、外国に対する軍備を早く整えることを書いた本です。江戸幕府の命令で本を作ることや売ることを禁止されました。