「寒風沢島の造艦碑」 ってなぁに? ~塩竈の文化財~

答え

江戸時代えどじだいわり、日本にほんにはたくさんの外国船がいこくせん来港らいこうするようになりました。

日本にほん外国がいこくからまもるための大型船おおがたせんをつくることを幕府ばくふゆるしたため、
仙台藩せんだいはん※1東北とうほくはじめての西洋型軍艦「開成丸せいようがたぐんかんかいせいまる」をつくりました。

設計指導せっけいしどうたった三浦乾也みうらけんや仕事しごと仙台藩主せんだいはんしゅにたたえられたことを記念きねんし、
三浦みうら弟子でしたちにより寒風沢島さぶさわじまにこの石碑せきひてられました。

  • 開成丸訓練帰帆図
    開成丸訓練帰帆図
  • 開成丸模型
    開成丸模型

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仙台藩せんだいはんは、養賢堂ようけんどう※2小野寺おのでら鳳谷ほうこく(1810-1866)を総責任者そうせきにんしゃに、長崎ながさき西洋型せいようがた軍艦ぐんかんをつくる技術ぎじゅつまなんだ三浦乾也みうらけんや(1821-1889)を江戸えどよりまねいて総棟梁そうとうりょうに、天文学者てんもんがくしゃ村田むらた善次郎ぜんじろう(1816-1878)を責任者せきにんしゃにそれぞれ任命にんめいして、寒風沢島さぶさわじま造船所ぞうせんじょをつくり、安政あんせい3年(1856)から開成丸かいせいまる建造けんぞうはじめました。

安政あんせい4年(1857)、完成かんせいした開成丸かいせいまるながさ33m、はば7.6m、高さたかさ5.8m、2本マスト(ふねるためにてられたはしら)、大砲たいほうもんそなえた東北地方とうほくちほうはじめての西洋型軍艦せいようがたぐんかんでした。

仙台藩主せんだいはんしゅ伊達だて慶邦よしくに(1825-1874)※3をはじめ、東北地方とうほくちほう各藩かくはんから藩主はんしゅ参加さんかし、寒風沢島さぶさわじま進水式しんすいしき※4おこなわれました。
しかし、開成丸かいせいまる軍艦ぐんかんとしての速力そくりょく不足ふそくしていたことなどから、江戸えどこめはこぶために使つかわれたりしたのち完成かんせいからわずか数年後すうねんご石巻いしのまき解体かいたいされました。

寒風沢島さわじまのこっている造艦ぞうかんたて2.3m、よこ1.2m)は、三浦乾也みうらけんや弟子でしらにより、安政あんせい4年(1857)にてられたものです。裏面うらめんには、開成丸かいせいまるをつくった人々ひとびと設計せっけい協力きょうりょくしたとみられる天文学者てんもんがくしゃ数学者すうがくしゃ名前なまえがほられています。江戸えど時代じだい塩竈しおがま寒風沢島さぶさわじまのようすをることができる貴重きちょう石碑せきひとして、塩竈市しおがまし有形文化財ゆうけいぶんかざい指定していされています。
平成へいせい23年(2011)の東日本ひがしにほん大震災だいしんさいのとき、寒風沢島さぶさわじまをおそった津波つなみによりたおれてしまいましたが、現在げんざい元通もとどおりになおされています。

  • 寒風沢造鑑の碑
    寒風沢造鑑の碑

補足説明

※1 仙台藩
江戸時代(1603-1867)に伊達家が支配した地で、現在の宮城県のほぼ全域と岩手県の南部を含む地域。現在の仙台市に城(仙台城、別名で青葉城)をつくりました。
※2 養賢堂
仙台藩の藩校(武士の子どものための教育施設)
※3 伊達慶邦
伊達政宗からかぞえて13代目、幕末の戊辰戦争を戦った仙台藩主
※4 進水式
つくった船を初めて水につける儀式