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塩竈を築いた人々
- 長南 和泉衛 ちょうなん いずみのかみ
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- ~1654
- かずさのくに上総国(今の千葉県)長南の領主でしたが、2年(1616)一族とともに寒風沢にやってきて、土地の埋め立てや港づくりに力をつくしました。また、黒松の種を持ってきて近くの島や浜に植えたといわれます。これらは後に寒風沢が港として栄える基礎となりました。
- 藤塚 知明 ふじづか ともあき
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- 1738~1800
- 貧しい漁師の家に生まれましたが、すぐれた才能に恵まれ、鹽竈神社の神官である藤塚知直の養子となり、知直の志をついで、「塩竈社古説伝」を書きました。史蹟の研究にもつとめ、詩歌にもすぐれた作品を残し、仙台藩の代表的な学者でした。また、日本や中国などの本を一万冊以上集めて、「名山文庫」をつくりました。
- 菊池 雄治 きくち ゆうじ
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- 1838~1900
- 明治5年(1872)に、戸長(村長)に選ばれ、湊税の取りたて、運輸の取りしまりをおこなう一方で産業をすすめ、町の発展のため努力し、明治6年(1873)には、塩竈学校(今の第一小学校)を開校しました。築港工事では、遊佐快禛らとともに力をつくし、後に塩竈港建設のために県議会議員になり、その推進につとめました。
- 清水 有閑 しみず ゆうかん
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- ~1665
- 伊達忠宗(二代藩主)の学問の先生として招かれ、仙台藩の学問のもとを築いた学者です。また、藩の新田開発を積極的にすすめ、「吉津」の干拓に力をそそぎました。庚塚や越の浦の野原や湿地を開き、堤防を築いて開拓をおこない、今の吉津のもとをつくりました。
- 遊佐 快禛 ゆさ かいしん/寿助 じゅすけ
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- ~1917
- 二代目快禛は、明治に入って急速にさびれていった塩竈の発展のためには、港を整備することが大切であると考え、開港場をつくるため努力しました。息子の寿助も築港に熱意をもってとりくみ、村の補助金と村人の寄付金6,000円を集め、塩竈の築港工事をはじめました。これが現在の塩竈港の第一歩となりました。
- 水間 豊稲 みずま とよしね
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- 1841~1911
- 塩竈町が誕生した翌年の明治23年(1890)、初代町長に選ばれ、教育・土木・衛生に力を入れて町政をおこないました。特に、長い間の問題であった水不足を解決するために、上水道工事の実現に努力し、春日沼から赤坂権現堂までの工事をはじめました。その工事は彼の死後、明治45年(1912)に完成しました。
- 鈴木 勘右衛門 すずき かんえもん
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- ~1793
- 鈴木家は麴をつくり、酒の醸造業を営み、代々検断という町役人をつとめていました。二代目勘右衛門の頃、塩竈は人口の増加が重なり、井戸水の不足に苦しんでいたため、彼は、泉沢から祓川に水を引き堰をつくり、樋で水を流して町の人々を水飢饉から救いました。祓川の碑は彼の功績をたたえたものです。
- 小池 曲江 こいけ きょっこう
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- ~1665
- 当時有名な絵師だった松村瑤江の弟子として、彼の画風を受けつぎ、中国の写生画のようなこまやかで美しい花鳥山水を描き、この画風をはじめて東北地方につたえました。また、全国を旅行しながら絵を描きました。明治になって仙台藩「四大画家」のひとりにかぞえられました。雲上寺には阿弥陀像を、松島の瑞巌寺には観音像を描いた石碑が残っています。
- 白石 広造 しらいし こうぞう
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- ~1913
- 明治4年(1871)、桂島の石浜に「白石廻送店(白石商会)」をつくって海運業をはじめ、北海道や三陸の各港と航路を開き、さらに、遠くカムチャッカ半島までラッコ漁に出かけました。海産物の販売、外米、豆かすの輸入、また養蚕や米の品種改良などもおこない、また消防組、電力会社をつくるなど、塩竈の町の発展につくしました。