伊達綱村が発した「貞享の特令」ってどんな特令? ~伊達氏と塩竈~

答え

鹽竈しおがま神社じんじゃを深く信仰しんこうしていた4代仙台藩主はんしゅ伊達だて綱村つなむらは、
港へのあげがって苦しんでいた塩竈の様子をみかねて、
塩竈を救うための特別の命令めいれいを出しました。
この命令めいれいを「貞享の特令じょうきょう とくれい」といいます。
この命令めいれいにより、塩竈しおがま仙台藩有数の港せんだいはんゆうすう みなととして発展はってんし、
さまざまな商品を売り買いする人々や、神社をおまいりに来る人、
松島見物の人が集まる町として大いににぎわいました。

  • 伊達綱村像

  • 東園寺碑拓本

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伊達家だてけは、陸奥国一之宮むつのくにいちのみや※1である鹽竈しおがま神社じんじゃをとても大切にしました。
藩主として神社におまいりしたり、日本刀にほんとうや馬をおさめたり、何度も社殿しゃでんを造り替えたりしました。
特に4代藩主綱村はんしゅつなむらは鹽竈神社を手厚く保護ほごしました。現在の鹽竈神社の建物は、ほとんどが綱村の命令によって建てられたものです。
江戸時代の中ごろ、運河うんががつくられて塩竈の港への荷あげが減ったことなどにより、塩竈の町は大きくおとろえました。

そこで、綱村つなむらは塩竈を救うための特別な命令(貞享じょうきょう特令とくれい※2)を出しました。新鮮な魚や材木、他の藩から商人が持ち込む荷物などはすべて塩竈の港から荷あげすることをはじめ、年貢を軽くすること、仙台でもなかなか認められていなかった馬の市や芝居しばいを開くのを許可きょかすることなど、9つの命令です。
この「貞享の特令じょうきょうとくれい」は江戸時代の終わりまで引きつがれ、塩竈は仙台藩有数の港として大きく発展しました。
塩竈の人々は綱村のおん感謝かんしゃし、綱村の命日めいにち(6月20日)とその前日(6月19日)に法要ほうようつづけてきました。また、綱村の戒名かいみょう※3から2文字をかりて「肯山講こうざんこう」という組織そしきをつくり、塩竈発展はってんのための様々な活動を行ってきました。

綱村つなむらくなって300年目ねんめにあたる平成30年へいせい ねん(2018)には、綱村つなむらのおかげで塩竈しおがまおおきく発展はってんしたことに感謝かんしゃし、市民しみん鹽竈神社しおがまじんじゃ境内けいだい記念碑きねんひてられています。

補足説明

※1 陸奥国一之宮むつのくにいちのみや
現在の福島県、宮城県、岩手県、秋田県、青森県にまたがる地域は、奈良時代から「陸奥国むつのくに」と呼ばれました。鹽竈神社は広い陸奥国の中で一番格式かくしきの高い神社(一之宮)とされ、信仰を集めました。
※2 貞享の特令
  1. 1 年貢を軽くしたりなくしたりする
  2. 2 藩が250両ずつの下賜金を与える
  3. 3 馬市を開くことをゆるす
  4. 4 見世物芝居を春と秋に行うことをゆるす
  5. 5 自由に新しい田をつくることをゆるす
  6. 6 商人の荷物、材木船は塩竈につける
  7. 7 港の整備

    

※3 戒名かいみょう
お坊さんに付けてもらう名前のこと。