「語り継ぐ震災」

 「あの日」「あれから」… それぞれの震災を語り、記憶を伝えます。


  • 日常的な防災準備と冷静な判断を

    仙台市内でコーラスのリハーサル中に震災に遭った高橋さんは、仙台駅周辺の交通渋滞状況から判断し、仙台で一泊。翌日、国道45号線は混雑するだろうと国道4号線(利府街道)を利用し、塩竈にたどり着いた。(その当時は国道45号線が凄まじい惨事になっているとは想いもよらなかった。)1階天井まで浸水した住居から津波の凄まじさを痛感。一方、震災当日塩竈にいた家族は、避難場所である鹽竈神社への経路が混雑することを予想し、北浜の高台へ避難。津波警戒地域にある自宅への帰宅ができないため、親戚の家や車中での避難生活を送った。ガソリンを節約しながらの車中泊では寒さが厳しく、ブランケットを備えるなど、日頃から防災用品を自宅や車に備える必要があった。また、予想以上の震災が起こると、冷静な判断ができなくなるため、避難準備を日頃から整え、できるだけ冷静な判断が下せるよう心がけたいと高橋さんは教訓を語る。

    塩竈市北浜 | 高橋正典さん
    取材日:2013年1月8日

  • 冷静さと時間の感覚が失われる震災

    塩竈市北浜で酒店を営む相原さんは、通常通り店舗で働いていたところを震災に見舞われた。店内の冷蔵庫や棚すべてが揺れ、落下する商品や揺れ動く商品棚に身体が痛めつけられる状態だった。津波警報発令により、車に荷物をまとめ高台に避難。震災当日は、気が動転し、家族共々思いがけない行動をとったり、時間の感覚を失っていたと語る。また、避難手段となる車での移動が、交通渋滞という混乱を引き起こしていた。クラクションや喚き声で騒然とする中、皆、周りのことが見えなくなる状況だった。
    翌日、浸水した店舗を確認し、瓦礫の中から店舗の一部をかき集める作業から開始。冷静さを失っていたため反省点もあるが、同業者の多大なる支援と、震災直後の無我夢中さがなければ、店舗再開までこぎつけることができなかっただろうと振り返る。

    塩竈市北浜 | 相原酒店 相原 健太郎さん
    取材日:2012年3月8日

  • 危険を判断し、一人でも高台への避難が第一

    仙台白菜づくりに取り組む鈴木さん、渡辺さん、馬場さんは、自宅が建っていた場所には石一つ転がってない程、すべてを津波にもっていかれてしまった。震災当日、それぞれ自宅で大地震に見舞われた。窓ガラスが壊れ、タンス等の家具が転倒した状況に、このまま自宅にいては危険と判断。昔からの「地震になったらまず高いところへ」という言い伝え通り、一人でも高台にある浦戸第二小学校浦戸中学校へ避難した。着の身着のままの状態のため忘れ物を取りに自宅に戻ろうとしたが、津波が治まるまで高台から降りてはならないと島民同士で警告し合った。とにかく高台への避難が第一と、島民同士で言い合うことで命を守り合っていきたいと語る。

    浦戸・野々島 | 白菜生産者 鈴木はつみさん 渡辺ハル子さん 馬場キミ子さん
    取材日:2012年7月4日

  • 歌で心情を残すことで震災復興を願う思いをより地域社会で共有したい

    震災から約一年となる2011年3月、アーティストと仮設住宅住民で震災復興を願う思いを形にし、心の復興を歌で共有した。伊保石仮設住宅住民の皆さんとテーマソングを作ることにより新居住空間(仮設住宅)や故郷への思いを引き出し、合唱により思いを寄せ合った。ボランティア団体の協力のもと、「みなと、みなと」は歌い続けられ、2012年7月、改めてアーティストと仮設住宅住民で合唱。歌で心情を残すことで、震災復興を願う思いを、より地域社会で共有することを目指している。

    「みなと・みなと」詳細
    http://kurashio.jp/fukkou/minato_minato

    塩竈・伊保石 | 伊保石仮設住宅住民、現代美術家・中島佑太、作曲家・首藤健太郎
    取材日:2012年7月10日

  • 強制的に島民を高台へ。津波経験を伝え命を守る

    震災当日は、海苔生産者らは午前中まで海(養殖漁場)で仕事をし、午後は島へ戻り、海苔製造機械を稼働していた。海上であれば、津波警報に気付くことはなかっただろうと 海苔養殖業・阿部義彦さんは語る。地震により機械は次々に倒れ、生産者らも直ちに高台へ避難。津波の高さが10mを超えると伝える警報やラジオ放送から、「うちは大丈夫」「身体が不自由だから家にいる」という年配の島民を軽トラに乗せて強制的に避難させた。徹底した島民同士の避難行動により人的被害がでなかった。復興の過程では、製造機械や資材を失った各家庭は若者を島から出稼ぎに出すべきか悩んだ。ただしそうなれば若者が島から離れてしまう結果になると、海苔生産者同士で共同になり施設を共有した。苦労した分、これまでよりも良い状態にしようと、現在、生産者は一丸となり海苔の生産に取り組んでいる。海を決してなめてはいけない、地震があれば津波は来るという意識を必ず持ち、津波経験を共有することで身を守っていきたいと阿部さんは語る。

    浦戸・桂島 | 海苔養殖業 阿部義彦さん
    取材日:2012年7月4日

  • 津波の感覚と経験を忘れてはいけない

    寒風沢島港前にて食料・雑貨店兼食事処「かじや」を営んでいた長南まり子さんは、異常な地震に、津波が来ることを身体で感じ取った。小学2年生のときチリ津波を経験。避難時に飢えと喉の乾きを体感した記憶から、長靴に履き替え、「かじや」店内にある商品を車に詰め込み、瞬時に食料・飲料品の確保に取りかかった。店から見える潮の高さで津波の到来に気付いた。波から逃げるように車で高台の旧浦戸第一小学校へ避難。自衛隊食料班の到着までの4日間、島民で力を合わせ、持ち込んだ食料で飢えを凌ぎ、ホット飲料でお年寄りの身体を温めた。小2時の飢えの経験が、島民の飢えを和らげることになった。「地震があったら津波」という祖父からの教えに加え、震災時に必要なことや物を、常に記憶と共に頭の中に入れておくことが大切であり、また、(堤防は重要だが)潮の変化が見えることが、何より島民を津波から避難させるのではないかと長南さんは語る。

    浦戸・寒風沢 | 長南まり子さん
    取材日:2012年2月7日

  • 高台から降りてはいけない。津波の教訓

    2011年7月10日に仮設住宅へ入居。3月11日当日は、異常な地震の揺れで津波が来ると直ちに察知し、避難所・旧浦戸第一小学校へ妻と孫を避難させた。その後、堤防門を閉め、足の不自由な島民をトラックに乗せ再び避難所へ。避難所では島民同士で食料を分かち合う等、団結しながら支え合った。寒風沢島には避難所が3カ所(松林寺、お不動さん、旧浦戸第一小学校)あるが、その中でも松林寺近くに住んでいた島民が、自宅が目の前だからと一時避難後、忘れ物を取りに自宅に戻り命を落としてしまった。津波がおさまるまでは、いくら避難所と自宅が近くとも決して高台から降りてはいけないと、今回の津波の教訓となったと島津さんは語る。

    浦戸・寒風沢 | 島津功さん
    取材日:2012年3月8日

  • 島ならではの備蓄習慣。飢えをしのいだ1週間

    民宿外川屋を営む外川栄子さんは、大地震後、寒風沢島の避難所のひとつ、高台にある旧浦戸第一小学校に避難した。避難所では、島ならではの備蓄生活により、各家庭から米や水等食料品を持ち寄り、また流れ着いたガソリンや灯油のドラム缶を集めては、皆で協力しながら炊き出しを行った。自衛隊の支援が届くまでの1週間は、島民同士で飢えを凌いだ。今後は、民宿を継続させるためにも家屋を修復することが第一歩であると外川さんは語る。海の恵は戻ってくると願いながら、ワカメの養殖にも挑戦している。

    浦戸・寒風沢 | 民宿「外川屋」 | 外川栄子さん
    取材日:2012年3月8日