伊達政宗(1567-1636)※1は仙台城(青葉城ともいう)をつくりました。
それまで宮城野原とよばれる原野だった仙台は、短い間に城下町として大きく発展し、最盛期には5万人ともいわれる人が暮らす大都市になりました。
江戸時代の塩竈は、仙台へ運ぶ荷物や海産物の荷あげ港として発展しました。
江戸時代は海産物が主なタンパク源だったので、
塩竈で水あげされた海産物が陸路で仙台に運ばれ、
城下町でさかんに売り買いされました。
このころ、浦戸諸島の寒風沢島※2には幕府の米蔵が置かれ、
たくさんの船が集まる港として栄えました。
江戸時代になり、戦乱がない平和な世の中になりました。
現在の岩手県南部から宮城県全体、福島県北部までの広い範囲を領地とした伊達政宗は、仙台に新しい城をつくることを決め、それまでの城下町だった岩出山から家臣を仙台に移住させました。お寺や神社もつくられ、仙台は武士やその家族、町人が住む城下町として、最盛期には5万人ともいわれる人が暮らす大都市に発展していきました。
奈良・平安時代、国府多賀城の港として発展した塩竈は、江戸時代、仙台に運ぶ荷物や商品、海産物などを荷あげする港としてにぎわいました。水あげされた魚や海草などの海産物は、多賀城や岩切を通って陸路で仙台に運ばれ、仙台の肴町でさかんに売り買いされました。
様々な理由で塩竈の港がおとろえてしまった時期もありましたが、貞享2年(1685)、鹽竈神社や門前町・塩竈をとても大切に考えていた4代藩主・伊達綱村が「貞享の特令」(※)を出してからは、仙台藩有数の港としてさらに発展しました。
このころ、浦戸諸島の寒風沢島には、江戸幕府の米(御城米)をおさめておくための蔵が置かれ、江戸に米を運ぶ大型船(千石船)の港として発展しました。
江戸幕府は、阿武隈川河口の荒浜(亘理町)に、福島県北部の天領(幕府が直接おさめる領地)でとれた米を運び出すための港を整備しました。しかし、河口にある荒浜港は、大型の船が出入りするのが難しく、風が強かったりすると船が近づけないことがあるため、強い風や高い波を避けるのに都合がよい寒風沢島にも米蔵(御城米御倉)が置かれることになりました。
仙台藩でも、年貢として集めた米や、農民から買い上げた米(買米)を寒風沢島に運び、ここから江戸に積み出しました。
寒風沢島には幕府や仙台藩の役人がおかれたほか、宿屋や問屋もでき、たいへんにぎわいました。また、寒風沢港に入港した船の船員が塩竈で休けいしたり、よい風が吹くのを待つ間塩竈にとどまったりしたので、寒風沢島の発展は塩竈の発展にもつながりました。
補足説明
- ※1 伊達政宗
- 初代仙台藩主、幼いころ右目を失明したことから後に独眼竜とよばれた。