仙台藩主伊達家に守られ、塩竈の町は港町として、門前町として栄えました。
江戸時代から続く鹽竈神社の帆手祭や花祭※1のはじまりは塩竈の町がおとろえたことと、そこからの復興に大きく関わっています。
仙台藩主は鹽竈神社をとても大切にしていました。塩竈の町がおとろえることは鹽竈神社がおとろえることと考えていたのでしょう。
病気や火災、不作が続き、さらに港に入る船が減り苦しむ港町塩竈を復興させるために、仙台藩が塩竈を守る特別の命令を出しました。また、塩竈町民も鹽竈神社の力を借りて、塩竈の町を再びにぎやかに発展させるために祭をはじめました。
町の発展と平和を願う小さな行事から、やがて神輿が多くの参加者とともに町に出る、町民の多くが参加する町の祭へと発展しました。神を乗せた神輿が町に出ていくことにより、町民が鹽竈神社を信じる気持ちを深めたことでしょう。
さらに、4代藩主伊達綱村(1659~1719)は、昔からの神の恩に感謝し、今後の発展を祈って、鹽竈神社を現在に残る立派な社殿に造り替えました。
補足説明
- ※1 帆手祭や花祭
- 帆手祭や花祭:天和2(1682)年に始まる「帆手祭」、安永7(1778)年に始まる「花祭」は、ともに塩竈の発展を願って氏子(神を信じる者)により始められ、昭和23(1948)年より「みなと祭」が加わって「氏子三大祭」と呼ばれる。