鹽竈神社によって塩竈が栄えたってどういうこと? ~鹽竈神社と町民~

答え

仙台せんだい藩主はんしゅ伊達家だてけまもられ、塩竈しおがままち港町みなとまちとして、門前町もんぜんまちとしてさかえました。
江戸時代えどじだいからつづ鹽竈神社しおがまじんじゃ帆手祭ほてまつり花祭はなまつり※1のはじまりは塩竈しおがままちがおとろえたことと、そこからの復興ふっこうおおきくかかわっています。

  • 鹽竈神社
    現在の鹽竈神社
  • 鹽竈神社縁起
    鹽竈神社縁起(部分)/ 元録六(1693年)/ 鹽竈神社

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仙台せんだい藩主はんしゅ鹽竈しおがま神社じんじゃをとても大切たいせつにしていました。塩竈しおがままちがおとろえることは鹽竈神社しおがまじんじゃがおとろえることとかんがえていたのでしょう。

病気びょうき火災かさい不作ふさくつづき、さらにみなとはいふねへりくるしむ港町みなとまち塩竈しおがま復興ふっこうさせるために、仙台藩せんだいはん塩竈しおがままも特別とくべつ命令めいれいしました。また、塩竈町民しおがまちょうみん鹽竈神社しおがまじんじゃちからりて、塩竈しおがままちふたたびにぎやかに発展はってんさせるためにまつりをはじめました。

まち発展はってん平和へいわねがちいさな行事ぎょうじから、やがて神輿みこしおおくの参加者さんかしゃとともにまちる、町民ちょうみんおおくが参加さんかするまちまつりへと発展はってんしました。かみせた神輿みこしまちに出ていくことにより、町民ちょうみん鹽竈神社しおがまじんじゃしんじる気持きもちをふかめたことでしょう。

さらに、4代藩主だいはんしゅ伊達だて綱村つなむら(1659~1719)は、むかしからのかみおん感謝かんしゃし、今後こんご発展はってんいのって、鹽竈神社しおがまじんじゃ現在げんざいのこ立派りっぱ社殿しゃでんつくりえました。

  • 鹽竈神社
    江戸時代の鹽竈神社のようす
  • 鹽竈神社
    江戸時代の鹽竈神社のようす

補足説明

※1 帆手祭や花祭
帆手祭や花祭:天和てんな2(1682)年に始まる「帆手祭」、安永あんえい7(1778)年に始まる「花祭」は、ともに塩竈の発展を願って氏子(神を信じる者)により始められ、昭和23(1948)年より「みなと祭」が加わって「氏子三大祭」と呼ばれる。