塩竈の港は陸奥国府多賀城の荷揚げ港、仙台藩の門戸港として栄えました。
明治時代から近代港湾の整備が進み、現在の塩釜港の基盤が形成されてきました。
特定重要港湾(現在の国際拠点港湾)に指定され、
名称が「仙台塩釜港塩釜港区」となりました。
明治時代の絵葉書
明治時代の絵葉書
■奈良時代から江戸時代の塩釜港
奈良時代、大和朝廷は東北地方を治めるために国府を多賀城(多賀城市)に置き、海に面している塩竈が多賀城の港の役割を果たしました。塩竈市の香津町は、国府の港を意味する国府津がなまった地名であると思われます。
江戸時代、御舟入堀が塩竈の牛生町から七北田川河口の蒲生(仙台市宮城野区)までの約7㎞に渡って建設されると、仙台藩の北部と仙台城下を水運で結ぶことができました。さらに七ヶ浜町湊浜で太平洋に注いでいた七北田川が蒲生へ向かうように付け替えられました。さらに、蒲生と苦竹(仙台市宮城野区)を結ぶ御舟曳堀も建設されました。これにより、蒲生が仙台城下町の港として発展し、塩竈は衰えていきました。塩竈が衰えていくことを心配した四代藩主の伊達綱村は、仙台向けの荷物は塩竈を通ることに決めたり、港を整備したり、塩竈は仙台の港として栄えました。塩竈湾内は土砂が堆積し水深が浅くなりやすいので、海底の土砂を欠かさず掘り下げて港の機能を維持していました。
■明治時代の塩釜港
明治時代になると塩竈は特権を失い、港に入る船も少なく、町もおとろえていきました。1884年(明治13年)に明治政府による野蒜築港(東松島市)が台風被害などによって中止されると、地元からの願いを受けて1882年(明治15年)海面を埋め立てて岸壁や港湾用地・工業用地をつくるなど築港工事が始まっていた塩竃の重要性が再び注目されるようになってきました。
日本鉄道奥州線(現・JR東北本線)工事のために、1886年(明治19年)6月に日本鉄道が南側を埋め立てて港の設備を整える工事をはじめました。日本鉄道はここから資材を荷揚げして仙台に向けて線路を敷き、1887年(明治20年)に塩釜駅(現在の海岸通)を開業させました。続いて1888年(明治21年)に北側も広く埋め立て工業用地にしました。
1910年(明治43年)第2種重要港湾に指定され、東西埠頭、中埠頭、臨港鉄道、航路等の近代港湾の整備が進み、1934年(昭和9年)横浜税関塩釜支所が設置され国際貿易港の指定を受けました。これによって、塩竈は再び仙台の港として認められるだけでなく、東北地方を代表する商港として発展していきました。
塩釜築港地より千賀の浦を望む
築港地市街
築港地市街
■現代の塩釜港
1971年(昭和46年)湊浜と蒲生との間を掘り込んで仙台港(仙台新港)が造られ、塩釜港仙台港区として開港しました。これ以降、仙台市の港としての役割は塩釜港から仙台港に移り、塩竈は国にとって特に重要な特定第3種漁港の塩釜漁港が中心の港町になりました。
塩釜港には東北地方を管轄とする海上保安庁の第二管区海上保安本部が置かれています。また、マリンゲート塩釜が「塩釜港旅客ターミナル」となっており、松島遊覧船の発着場となっています。塩釜港は生マグロ水揚高日本一を誇り、隣接する缶詰工場団地でかまぼこなどの魚肉練り製品を製造しています。
政宗の時代から本格的な町場が形成された塩竈の港が、今日の塩釜港へと発展しました。
塩釜港全景(H15.8)東側から
補足説明
- 年表
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- 1882年(明治15年) 塩釜港修築工事はじまる
- 1910年(明治43年) 第2種重要港湾に指定される
- 1915年(大正4年) 第一期築港工事はじまる
- 1933年(昭和8年) 第一期築港工事完了、祝賀会
- 1934年(昭和9年) 横浜税関塩釜支所が設置される
- 1948年(昭和23年) 第二管区海上保安本部が設置される
- 1951年(昭和26年) 重要港湾に指定される
- 1959年(昭和34年) 貞山1号埠頭完成
- 1996年(平成8年) 塩釜港旅客ターミナル「マリンゲート塩釜」オープン
- 2001年(平成13年) 港名を仙台塩釜港(塩釜港区)に変更し、特定重要港湾になる