『都のつと』

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【原文】

 その日くるるほどに。しほがまの浦に行つきぬ。
 則(すなわち)神躰(しんたい)は やがてしほがまにてわたらせ給(たま)ふ。御前につやし侍(はべ)りぬ。
 このうらの東にむかへる入海(いりうみ)にかけはしたかくかけて。うらより遠にかよふみちあり。又磯のきはをめぐりて山の陰を行道もあり。
 あまの家どもおほくつくりならべたるにけぶりのたちのぼるも。これや塩やくなるらんとみゆ。
 浦こぐ船のつなでも。所がらにや心ひくすぢ也。更行月にからろの音たえだえきこえていと心すごし。
 わが御門(みかど)六十余国の中にしほがまといふところににたるなしと。
 いにしへの人のいひけんもことはりなりとおぼえし。
 
  有明の月とともにや塩かまの
      浦こく舟も遠さかるらん

【現代語訳】

その日、日が暮れる頃に塩竈の浦に到着した。鹽竈神社のご神体は、塩焼きの竈でそのままこの地にお着きになられたが、その神社の御前で、夜通し参籠(さんろう)した。この浦の東方向にのびる入り海に、架け橋を高く懸(か)け渡して浦より遠国(とうごく)に向かう道がある。又、磯伝(いそづた)いに山の陰を進む道もある。海人(あま)の家々が多く連なっているところに、煙が立ち上っているのを見ると、これが塩を焼く煙なのだろうかと思われる。入り江を漕いで出て行く船を引く綱手(つなで)の様子も「陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ船の綱手かなしも」(『古今和歌集』1088年)という歌の詠まれた場所柄のせいか、心惹(つ)かれる趣(おもむき)がある。夜が更(ふ)けるにつれて、月の光に、艪(ろ)を漕ぐ音が絶え絶えに聞こえて、その様子は戦慄(せんりつ)を感じさせるような風情(ふぜい)である。「わが国六十余国の中で、塩竈というところに匹敵(ひつてき)する風光明媚(ふうこうめいび)なところはない」(『伊勢物語』八十一段)と昔の人が言ったとかいうのも尤(もつと)もなことと思われた。
 有明の月とともに塩竈の浦を漕ぎ出した船は、今頃遠ざかっているだろうか。

【解 説】

『都のつと』は、南北朝時代の観応(かんのう)年間(1350~52年)、筑紫(九州)を出て歌枕の地を訪ねながら諸国を放浪した宗久法師(そうきゅうほうし)(生没年未詳)の紀行文で、旅のあらましを記して、都のつと土産(みやげ)としたものです。
この紀行文は、鹽竈神社の御神体のことや、製塩の様子、香(国府)津(づ)千軒(せんげん)と呼ばれた街なみや、港を出て行く船の様子などが生き生きと描写されており、中世の塩竈を知ることのできる貴重な史料です。
宗久は帰途、武蔵(むさし)国(関東)で道連れを得て「塩竈の浦みも果ては君がため拾ふ塩貝甲斐(かい)やなからん」という歌を詠み、旅の目的地が塩竈であったことを匂(にお)わせています。

 彼の詠歌(えいか)は後に勅撰集(ちよくせんしゆう)に四首採録され、松尾芭蕉の紀行文『おくのほそ道』にも影響を与えたといわれています。

作者・著者:宗久法師(そうきゅうほうし)
年代:観応年間
材質・形状:石碑
所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道)
閲覧可

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