『塩釜甚句』
【原文】
塩 釜 甚 句 (しおがまじんく)
塩釜 ハットセ
街道に 白菊植えて ハットセ
何を聞く聞く アリヤ 便り聞く
ハ ハ ハットセ
塩釜出る時や 大手振りよ
総社の宮から 胸勘定
千賀の浦風 身にしみじみと
語り合う夜の 友千鳥
さあさ やっこらさと 乗り出す船は
命帆にかけ 浪枕
末の松山 末かけまくも
神のはじめし 海の幸
【解説】
甚句というのは、七、七、七、五の四句からなり、踊りを伴うものが多くあります。
塩釜甚句は、別名「仙台ハットセ」または「ハットセ」といわれますが、やはり歌われるときは、芸妓(げいぎ)などにより威勢のいい振り付けの踊りが演じられ、ハットセという賑やかな掛声が踊りの間拍子(まびょうし)に入ります。
その由来は、四代藩主綱村(はんしゅつなむら)が元禄(げんろく)8年(1695年)に、鹽竈神社造替に着手し、宝永(ほうえい)元年(1704年)に落成を祝って、文人粋(すい)客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方で流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して、塩竈の芸妓に謡(うた)わしめたことに始まるといわれています。
塩釜甚句の歌曲のもとになったという「アイヤ節」は、九州天草地方で歌われていた「ハイヤ節」が、日本海を北上し津軽で「アイヤ節」となり、太平洋沿岸に移入されたもので、石巻では、明治の中頃まで「塩釜甚句」をアイヤ節と呼んでいました。
また「ハットセ」のかけ声は、陸中(岩手)の宮古、山田・釜石の漁港で歌われた「ハットサササ」が転訛(てんか)したものだといわれています。
塩釜甚句の歌詞には、仙臺海道(塩竈街道)を塩竈に向かう旦那衆の遊女に恋い焦がれる心情や、三味線、太鼓の音で賑っていた塩竈の様子伺うことができます。
収蔵場所(石碑):宮城県塩竈市西町(鹽竈海道)
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