Author Archives: シオーモ

『都のつと』

【原文】  その日くるるほどに。しほがまの浦に行つきぬ。  則(すなわち)神躰(しんたい)は やがてしほがまにてわたらせ給(たま)ふ。御前につやし侍(はべ)りぬ。  このうらの東にむかへる入海(いりうみ)にかけはしたかくかけて。うらより遠にかよふみちあり。又磯のきはをめぐりて山の陰を行道もあり。  あまの家どもおほくつくりならべたるにけぶりのたちのぼるも。これや塩やくなるらんとみゆ。  浦こぐ船のつなでも。所がらにや心ひくすぢ也。更行月にからろの音たえだえきこえていと心すごし。  わが御門(みかど)六十余国の中にしほがまといふところににたるなしと。  いにしへの人のいひけんもことはりなりとおぼえし。     有明の月とともにや塩かまの       浦こく舟も遠さかるらん 【現代語訳】 その日、日が暮れる頃に塩竈の浦に到着した。鹽竈神社のご神体は、塩焼きの竈でそのままこの地にお着きになられたが、その神社の御前で、夜通し参籠(さんろう)した。この浦の東方向にのびる入り海に、架け橋を高く懸(か)け渡して浦より遠国(とうごく)に向かう道がある。又、磯伝(いそづた)いに山の陰を進む道もある。海人(あま)の家々が多く連なっているところに、煙が立ち上っているのを見ると、これが塩を焼く煙なのだろうかと思われる。入り江を漕いで出て行く船を引く綱手(つなで)の様子も「陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ船の綱手かなしも」(『古今和歌集』1088年)という歌の詠まれた場所柄のせいか、心惹(つ)かれる趣(おもむき)がある。夜が更(ふ)けるにつれて、月の光に、艪(ろ)を漕ぐ音が絶え絶えに聞こえて、その様子は戦慄(せんりつ)を感じさせるような風情(ふぜい)である。「わが国六十余国の中で、塩竈というところに匹敵(ひつてき)する風光明媚(ふうこうめいび)なところはない」(『伊勢物語』八十一段)と昔の人が言ったとかいうのも尤(もつと)もなことと思われた。  有明の月とともに塩竈の浦を漕ぎ出した船は、今頃遠ざかっているだろうか。 【解 説】 『都のつと』は、南北朝時代の観応(かんのう)年間(1350~52年)、筑紫(九州)を出て歌枕の地を訪ねながら諸国を放浪した宗久法師(そうきゅうほうし)(生没年未詳)の紀行文で、旅のあらましを記して、都のつと土産(みやげ)としたものです。 この紀行文は、鹽竈神社の御神体のことや、製塩の様子、香(国府)津(づ)千軒(せんげん)と呼ばれた街なみや、港を出て行く船の様子などが生き生きと描写されており、中世の塩竈を知ることのできる貴重な史料です。 宗久は帰途、武蔵(むさし)国(関東)で道連れを得て「塩竈の浦みも果ては君がため拾ふ塩貝甲斐(かい)やなからん」という歌を詠み、旅の目的地が塩竈であったことを匂(にお)わせています。  彼の詠歌(えいか)は後に勅撰集(ちよくせんしゆう)に四首採録され、松尾芭蕉の紀行文『おくのほそ道』にも影響を与えたといわれています。 作者・著者:宗久法師(そうきゅうほうし) 年代:観応年間 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , , |

『好色一代男』

【原文】 好色一代男(こうしょくいちだいおとこ) 口舌(くぜつ)の事触(ことふれ)(巻三)   仙台(せんだい)につきてみれば、この所の傾城町(けいせいまち)はいつの頃絶えて、その跡なつかしく、松島や雄島(をじま)の人にもぬれて見むと、身は沖の石、かわく間もなき下の帯、末の松山腰のかがむまで色の道はやめじと、けふ塩竈の明神に来て、御湯(おゆ)まゐらせける人をみるから恋ひそめ、社人(しゃにん)に近寄り、「我は鹿島より当社に参り、七日の祈念して帰れとの霊夢にまかせ候」と申せば、いづれも、「有難き事かな」と様々いさめけるうちに、かの舞姫、男あるをそそのかして色々おどせば、女ごころのはかなく、おしこめられて声をも得てず、この悲しさいかばかり、「道ならぬ道ぞ」と膝をかため泪をながし、こころのままにはならじと、かさなればはね返して、命かぎりとかみつきし所へ、男は夜の御番勤めし、夢心に胸さわぎ、宿に盗人の入ると見て立帰り、女は科(とが)なき有様(ありさま)、世之介を捕へて、とかくは片小鬢(かたこびん)剃られて、その夜沙汰(さた)なしに行方(ゆきがた)しらずなりにき。 【現代語訳】 仙台に着いてみると、この御城下(ごじょうか)の傾城(けいせい)町はいつの頃か絶えて、その跡も懐かしく、せめて松島や雄島(おじま)の女とでも濡れてみようと、わが身は沖の石のように乾くまもない下の帯という有様(ありさま)、末の松山の松のように腰のかがむまで色の道だけはやめまいと、今日、塩竈の明神に来て、湯立をとり行う巫女(みこ)を一目見たとたん夢中になって、社人に近寄り、「私は鹿島から当社に参拝、七日間祈念をして帰れとの、霊夢(れいむ)に任せ参りました」と申すと、皆々は「それは有難いことだ」と様々に励ましてくれたが、その舞姫に亭主があるのにそそのかし、いろいろ威(おど)すと、女心のはかなく、押さえこまれて声も立てられず、この悲しさはどんなであろう。「道ならぬことです」と膝を固め涙を流して、自由にはされまいと、重なればはね返し、命懸(いのちが)けでかみついたところへ、亭主は宿直を勤めていたが、夢心に胸騒ぎがして、家に盗人(ぬすっと)でもはいったのではないかと帰ってみると、女房に科(とが)はない有様なので世之介(よのすけ)だけが捕えられ、有無を言わさず片小鬢(かたこびん)を剃られて、その夜のうちにこっそりと行方が知れなくなってしまった。 【解 説】 万治(まんじ)年間(1658~1660年)に藩内(はんない)での遊女町は禁じられましたが、港町であった塩竈と石巻は黙認されました。特に塩竈は仙台に近く、鹽竈神社参拝、松島観光を背景に大変繁盛し、西町から本町に多くの遊女屋ができました。  年代は下りますが、文化文政(1804~1829年)の記録では、216人の遊女と26軒の遊女屋、14軒の小宿座敷がありました。   井原西鶴(1642~1693年)は、仙台や塩竈を訪れたことはなかったと思われますが、好色一代男が描かれた天和(てんな)2年 (1682年)には、塩竈がすでに遊女町として全国的に広く知れ渡っていたことが伺えます。 作者・著者:井原西鶴(いはら さいかく) 年代:天和2年 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , , |

『源氏物語 乙女』

【原文】 少女(をとめ)   大殿、静かなる御住(すまひ)を、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませんの御心にて、六条京極のわたりに、中宮の御旧(ふる)降き宮のほとりを、四町(よまち)を占(し)めて造らせたまふ。  ― 中略 ―  八月にぞ、六条院造りはてて渡りたまふ。未申(ひつじさる)の町は、中宮の御旧宮(ふるみや)なれば、やがておはしますべし。辰巳(たつみ)は、殿のおはすべき町なり。丑寅(うしとら)は、東(ひむがし)の院に住みたまふ対の御方、戌亥(いぬゐ)の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便(びん)なき所なるをば崩しかへて、水のおもむき、山の御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。 【現代語訳】 源氏の大臣は、閑静(かんせい)なお住まいをお望みになり、それも同じことなら広く見どころのあるように造営して、あちらこちらに気がかりな様子でお住まいの方々をも、一同に集めて住まわせようというお考えで、六条京極のあたり、梅壺中宮の旧邸の周辺に、四町(よまち)を用地に占めて新邸をお造りになられる。 ― 中略 ―  八月には、六条院の造営を終えてお移りになる。西南の町は、もともと梅壺中宮の伝領されたお邸なので、そのまま中宮がお住まいになる予定である。東南の町は、大臣と紫の上がお住まいになることになっている。東北は二条東院にお住まいの対の御方(花散里)、西北は明石(あかし)の御方のお住まいとお決めになられた。  もとからあった池や山なども、具合のわるい所は崩して位置を移し、水の流れや山のたたずまいを改めて、四つの町それぞれに住む方々のご希望にそうような風趣(ふうしゆ)をお造りになられた。 【解 説】 源氏物語は、寛弘(かんこう)5年(1008年)頃に紫式部によって執筆された王朝物語です。  「少女」の巻に登場する光源氏の本邸『六条院』や「夕顔」の巻の『某(なにがし)の院』は、塩竈をこよなく愛した「光源氏のモデル」といわれる河原左大臣によって、六条京極(現在の京都市下京区本塩竈町付近)に、塩竈の景色をまねて築かれた大庭園『河原院』です。  物語の『六条院』は、それぞれの町に住む方々の希望に添って、春の御殿(紫の上)夏の御殿(花散里)、秋の御殿(梅壺中宮)、冬の御殿(明石の御方)、と、四季を配した庭園造りがなされていますが、モデルとなった『河原院』も方四町(約250m四方)、一説には2倍の八町の広さがあったと伝えられています。  また籬(まがき)島などを配置した園池には、遠く難波の浦(尼崎)から毎月あるいは毎日、三十石(こく)(約5.4t)の海水を運び込み、魚貝を棲まわせて、塩焼く煙を立ち上らせたと伝えられ(『安法法師(あんぽうほうし)集』、『顕註密勘(けんちゆうみつかん)』、『伊勢物語愚見抄(ぐけんしよう)』、『雍州府志(ようしゆうふし)』による)、まさに塩竈という名のテーマパークであり、日本庭園のルーツともいわれています。  源氏物語は、塩竈を愛した貴公子の塩竈を模した庭園を舞台とした物語ともいえることから、源氏物語千年紀を記念し、ここに建立しています。 作者・著者:紫式部(むらさきしきぶ) 年代:寛弘5年 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , , |

『おくのほそ道』

【原文】 それより野田の玉川 沖の石を尋(たづ)ぬ 末(すゑ)の松山(まつやま)は寺造を(つくり)て末松山(まつしようざん)といふ  松のあひあい皆墓はらにて はねをかはし枝をつらぬる契(ちぎり)の末も終(つひに)はかくのごときと 悲しさも 増(まさ)さりて塩がまの浦に入相(いりあひ)のかねを聞(きく)五月雨(さみだれ)空聊(いささか)はれて 夕月夜幽(ゆふづくよかすか)に籬(まがき)が嶋もほど近し 蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて 肴(さかな)わかつ声々に つなでかなしも とよみけん心もしられて いとゞ哀也(あはれなり) 其(その) 夜目盲(よめくら)法師の琵琶(びわ)をならして奥浄(おくじやう)るりと云(いふ)ものをかたる平家にもあらず 舞にもあらず ひなびたる調子うち上(あげ)て枕(まくら)ちかうかしましけれどさすがに辺土の遺風忘れざるものから 殊勝(しゆしよう)に覚(おぼえ)らる 【現代語訳】   それから野田の玉川、沖の石を訪ねた。末の松山には末松山と号する寺が建てられている。松の木々の間は皆墓原になっていて、「比翼連理(ひよくれんり)の契」を交わしても、その末にはこのように墓に入ることになると思うと、悲しさも深まったところ、やがて塩竈の浦で夕暮れの鐘の音を聞いた。  五月雨の空がいくらか晴れて、夕月がほのかに照らし、籬(まがき)が島も間近に見える。漁師の小舟が連れ立って漕ぎ帰り、魚を分け合う声を聞くにつけても、古人が〈綱手かなしも〉と詠んだ気持ちもよく分かり、いっそうしみじみとした心地がするものだ。その夜、盲目の法師が琵琶をかきなら奥浄瑠璃(おくじようるり)というものを語った。平家琵琶とも違い、幸若舞(こうわかまい)の曲でもない、いなかめいた調子で声を張り上げて、枕元から近くてやかしましいけれど、さすがに片田舎に残る昔からの文化を忘れずに伝えているものゆえ、感心なことと思われた。 【解 説】 『おくのほそ道』は、俳人松尾芭蕉(まつおばしよう)(1644~1694年)が門弟曾良(そら)を伴って、元禄2年(1689年) 3月27日(陽暦 5月16日)に江戸を立ち、東北・北陸の名所旧跡を巡り、同年9月、岐阜大垣に至るまでの約150日、約600里(2400㎞)に及ぶ旅の紀行本であり、日本古典文学の代表的作品となっています。  芭蕉は旅立つにあたり、伊賀上野の俳友に「松島の朧月(おぼろづき)」と「鹽竈(しおがま)の桜」を楽しみしているという手紙を残していますが、塩竈を訪れたのは同年5月8日(陽暦6月24日)、御釜神社、野田の玉川などを巡って裏坂の治兵衛の宿に泊まり、翌日、鹽竈神社を参拝し、船で籬島などを眺めながら松島へ向いますが、残念ながら鹽竈桜をみることは叶いませんでした。 作者・著者:松尾芭蕉(まつお ばしょう) 年代:元禄時代 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , , |

『宇治拾遺物語』

【原文】 河原院融公(かわらのゐんとほるこう)の霊住む事 (巻第十二 十五) 今は昔、河原院は融の左大臣の家なり。陸奥(みちのく)の塩釜(しほがま)の形(かた)を作りて、潮(うしほ)を汲み寄せて、塩を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽(つく)して、住み給ひける。大臣(おとど)失せて後、宇多院には奉りたるなり。延喜(えんぎ)の御門(みかど)、たびたび行幸ありけり。 まだ院住ませ給ひける折に、夜中ばかりに、西の対の塗籠(ぬりごめ)をあけて、そよめきて、人の参るやうに思(おぼ)されければ、見させ給へば、ひの装束うるはしくしたる人の、太刀(たち)はき、笏(しゃく)取りて、二間ばかり退(の)きて、かしこまりて居たり。「あれは誰(た)ぞ」と問はせ給へば、「ここの主に 候(さぶらふ) 翁(おきな)なり」と申す。「融の大臣か」と問はせ給へば、「しかに候」と申す。「さはなんぞ」と仰せらるれば、「家なれば住み候(さぶらふ)に、おはしますがかたじけなく、所狭(ところせ)く候(さぶらふ)なり。いかが仕(つかまつ)るべからん」と申せば、「それはいといと異様(ことやう)の事なり。故大臣の子孫の、我に取らせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあOらめ、礼も知らず、いかにかくは恨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、かい消(け)つやうに失せぬ。その折の人々、「なほ御門(みかど)はかたことにおはします者なり。ただの人はその大臣(おとど)にあひて、さやうにすくよかにはいひてんや」とぞいひける。 【現代語訳】  今は昔、河原院は融の左大臣(さだいじん)の家である。陸奥(みちのく)の塩竈の風景をまねて庭をつくり、潮水(しおみず)を汲みよせて塩を焼かせたりするなど、さまざまな風流の限りを尽くして住んでおられた。大臣(おとど)の死後、宇多(うだ)院にさしあげたのである。延喜(えんぎ)の帝(みかど)がたびたび行幸(ぎょうこう)なった。  まだ宇多院がお住みになっておられたころ、夜半ごろに、西の対屋(たいのや)の塗籠(ぬりごめ)を開けて、そよそよと衣ずれの音がして人がやって来るように思われたので、御覧になると、束帯(そくたい)の装束(しょうぞく)で身を整えた人が、太刀(たち)をつけ、笏(しやく)を持って、二間ばかりさがって、かしこまっていた。「おまえは誰か」とお尋ねになると、「ここのあるじの翁でございます」と言う。「融の大臣か」とお聞きになると、「さようでございます」と言う。「では何用じゃ」と仰(おお)せになると、「わが家でありますから住んでおりますが、帝がおいでになるのが畏(おそ)れ多く、気づまりに存ぜられます。どのようにおお仕えしたらよいでしょう」と言うので、「それはたいそうおかしなことだ。おまえの子孫が私にくれたからこそ住んでいるのだ。私が無理にとりあげたのならばともかく、礼儀もわきまえずに、どうしてそのように恨むのか」と声高らかに仰せられると、かき消すようにうせてしまった。その時、人々は、「やはり、帝は格別でいらっしゃる。普通の人なら、その大臣に会って、あんなにはっきりとはものが言えるだろうか」と言い合ったという。 【解 説】  「宇治拾遺物語」の成立は、鎌倉時代初期の建暦(けんりゃく)2年〜承久(じょうきゅう)3年(1212~1221年)といわれ、作者未詳。 源氏物語「夕顔」の巻で登場する「某(なにがし)の院」とは、この段に登場する「河原院」といわれています。 光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとおる)により陸奥の塩竈をまねて築かれた広大な邸宅は、融亡きあと荒廃(こうはい)し、藤原基経(ふじわらのもとつね)の陰謀で皇位を継承できなかった融の霊が怨みを抱いて住みついていると忌(い)み嫌われました。  塩竈を詠んだ和歌に寂しい風景が多いのは、荒廃した「河原院」、つまり京に移された「塩竈」を詠んだためで、決して陸奥の塩竈が当時寂しい風景だったわけではありません。 年代:鎌倉時代初期 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , |

『伊勢物語 塩竈(八十一段)』

【原文】 むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。 賀茂川(かもがは)のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。 十月(かんなづき)のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜(よ)ひと夜(よ)、酒飲みし遊びて、夜(よ)明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。  そこにありけるかたゐおきな、板敷(いたじき)のしたにはひ 歩(あり)きて、人にみなよませはててよめる。   塩竈(しほがま)に いつか来(き)にけむ      朝なぎ釣(つり)する船は ここによらなむ  となむよみけるは。陸奥(みち)の国にいきたりけるに、 あやしくおもしろき所々多かりけり。 わがみかど六十余国(よこく)のなかに、塩竈といふ所に似たる所なかりけり。 さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、 塩竈にいつか来(き)にけむとよめりける。 【現代語訳】  むかし、左大臣(源融)(さだいじんみなもとのとおる)がいらっしゃった。賀茂川(かもがわ)のほとり、六条辺(ろくじょうあたり)に、家をたいそう趣(おもむき)深く造ってお住みになっておられた。 十月(かんなづき)の末のころ、菊の花が色変わりして美しく感じられ、紅葉がさまざまな色に見える折(おり)、親王(みこ)たちをお招きして、一晩中酒を飲み、管弦の調べを楽しんで、夜がだんだん明けてゆくころに、一同、この御殿(ごてん)の趣深いことを賛美する歌を詠んだ。  そこに居あわせた卑しい老人が、縁(えん)の板敷(いたじき)の下を這(は)いまわって、人々がみな詠み終わるのを待ってから詠んだ。   塩竈にいつのまに来てしまったのだろうか 朝凪(あさなぎ)の中 釣りする舟は  この私のいるところに寄って来て欲しいものだ と詠んだのは、陸奥(みち)の国へ行った時に、不思議で趣深い所が多かったのである。本朝(ほんちょう)六十余国のうちに、塩竈という所におよぶ風景の所はなかったのである。それゆえ、かの老人は、この庭をことさらに賞賛して、「塩竈にいつか来にけむ」と詠んだのだった。 【解 説】 「伊勢物語」の成立は、「古今集(こきんしゅう)」成立(905年)以前といわれ、作者未詳。 最初の歌物語であり、在原業平(ありわらのなりひら)と思われる主人公の一代記風の物語です。  この段に登場する源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇(さがてんのう)の皇子、左大臣で光源氏のモデルともいわれ、貞観6年(864年)陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)として国府多賀城(こくふたがじょう)に下向(げこう)した際、融ヶ丘(塩竈公園)に融公亭(とおるこうてい)建て、塩竈の風景を愛(め)でたと伝えられています。  帰京後も、塩竈の風が忘れられず、京都六条(現下京区本(もと)塩竈町付近)に、塩竈の風景をまねた大庭園(河原院 かわらのいん)を造り、遠く難波(なにわ)の海水を池に汲み入れ、海の魚を放ち、塩焼く煙を立ち上らせて、栄華風流を極めたといわれています。  都人はこの庭園を塩竈に見立てて、たくさんの和歌を詠み、「あこがれの地」「美しいものの代名詞」として塩竈を讃えました。 年代:平安時代初期 材質・形状:石碑 所在地:宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , |

『塩釜甚句』

【原文】 塩 釜 甚 句 (しおがまじんく) 塩釜 ハットセ  街道に 白菊植えて ハットセ 何を聞く聞く アリヤ 便り聞く ハ ハ ハットセ 塩釜出る時や 大手振りよ 総社の宮から 胸勘定 千賀の浦風 身にしみじみと 語り合う夜の 友千鳥 さあさ やっこらさと 乗り出す船は 命帆にかけ 浪枕 末の松山 末かけまくも 神のはじめし 海の幸 【解説】 甚句というのは、七、七、七、五の四句からなり、踊りを伴うものが多くあります。 塩釜甚句は、別名「仙台ハットセ」または「ハットセ」といわれますが、やはり歌われるときは、芸妓(げいぎ)などにより威勢のいい振り付けの踊りが演じられ、ハットセという賑やかな掛声が踊りの間拍子(まびょうし)に入ります。 その由来は、四代藩主綱村(はんしゅつなむら)が元禄(げんろく)8年(1695年)に、鹽竈神社造替に着手し、宝永(ほうえい)元年(1704年)に落成を祝って、文人粋(すい)客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方で流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して、塩竈の芸妓に謡(うた)わしめたことに始まるといわれています。 塩釜甚句の歌曲のもとになったという「アイヤ節」は、九州天草地方で歌われていた「ハイヤ節」が、日本海を北上し津軽で「アイヤ節」となり、太平洋沿岸に移入されたもので、石巻では、明治の中頃まで「塩釜甚句」をアイヤ節と呼んでいました。 また「ハットセ」のかけ声は、陸中(岩手)の宮古、山田・釜石の漁港で歌われた「ハットサササ」が転訛(てんか)したものだといわれています。 塩釜甚句の歌詞には、仙臺海道(塩竈街道)を塩竈に向かう旦那衆の遊女に恋い焦がれる心情や、三味線、太鼓の音で賑っていた塩竈の様子伺うことができます。 材質・形状:文学作品 収蔵場所(石碑):宮城県塩竈市西町(鹽竈海道) 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

文学館 | , , |

太田與八郎商店

太田與八郎商店(おおたよはちろうしょうてん) 昭和2年頃に建てられた店舗付居宅と工場。釘は使われず、完成まで2年を要しました。工場は当時世界を席巻したモダニズム建築の洗礼を受けています。平成5年塩竈市文化景観賞を受賞。 年代:1926年 材質・形状:建築 収蔵場所:宮城県塩竈市宮町2-42 閲覧可 地図 より大きな地図で 「文化の港 シオーモ」 を表示

博物館 | |

塩釜曲渓者眞寫於浦上之勝景西寫頒行 于東遊之好士余不堪感激代顕作歌一首

作者・著者:藤原直常 奥州宮城群塩釜西町 菅原屋茂三郎/蔵版 年代:享和3年(1803) サイズ:45 ×144.9cm(内30.5×124.1cm) 材質・形状:額17 収蔵場所:塩竈市民図書館塩竈市本町1-1

博物館 | , , , |

宮城群全図

作者・著者:高橋保庸/主記 年代:~1889年 サイズ:565 × 803mm 材質・形状:地図2-20

博物館 | , , |

日本景勝一覧圖

作者・著者:孟春/板行 年代:1840年 サイズ:441 × 703mm(閉199 × 109mm) 材質・形状:D-125

博物館 | , , |

韋天将軍

作者:佐藤允了(さとう いんりょう) サイズ:280 x 360 x 70mm 材質:木彫(桜・彩色)

美術館 | , |